クオンティニュアム インタビューシリーズ第2回
国際チームで量子計算化学ソフトウェアプラットフォーム「InQuanto」を開発。
─夢は化学反応研究への応用─
クオンティニュアムの社員、役員、関係者へのインタビューシリーズ企画の第2回。
登場するのは、前回のインタビュー記事で結解秀哉社長が「量子コンピューティングの可能性を確信させてくれた人物」と評した研究員の山本憲太郎です。日英米にまたがる国際チームで量子計算化学ソフトウェアプラットフォーム「InQuanto(インクァント)」の開発に取り組む山本に、クオンティニュアムに参画した理由、量子コンピュータの実用化が化学研究にもたらすインパクト、クオンティニュアムで働くことの魅力などを聞きました。
山本憲太郎 クオンティニュアム株式会社 Senior Research Scientist
2015 年に東京大学大学院理学系研究科で博⼠号(理学)を取得後、東京大学と京都大学で研究員を経験。
この間、主に光合成系に共通する⽔分解触媒における化学反応を研究。2020年にクオンティニュアム株式会社
(旧Cambridge Quantum Computing Japan)に入社し、研究員として量子コンピュータを用いた計算化学に関する研究、開発等を⾏う。英国本社のチームと連携し、計算化学向けの量子アルゴリズムに関する研究を⾏うと ともに、
量子計算化学プラットフォーム「InQuanto」の開発に携わり、計算化学分野における量子優位性の実現を目指している。
〇計算化学の王道を進むべくクオンティニュアムに参画
──そもそも、量子コンピュータと関わるきっかけは何だったのでしょうか?
大学では、光合成をテーマに選んで、従来方式のコンピュータ(古典コンピュータ)を使って研究していました。量子コンピュータのことを知ったのは、国内の大学に研究開発拠点ができるという報道に触れたのがきっかけです。
当時は量子コンピュータが化学反応の研究に使えるとは知らず、「新しいコンピュータの研究開発が本格化しているのだな」といった印象を抱いた程度でした。
その後、研究員として次のポジションを探し始めた際に、クオンティニュアムの存在を知りました。それから「量子コンピュータってどういうものだろう?」と強い興味が湧き、色々と調べている中で、量子コンピュータを化学研究に使うと、従来とは異なる方向性の研究が可能になることを知り、この道に進むことを決めました。
──大学に残って研究を続ける道もあったと思います。クオンティニュアムへの参画を選んだ最大の理由は何ですか?
一言で言えば、私が計算化学の王道だと考える道を歩むためです。
古典コンピュータによる化学反応の研究は、ある意味やり尽くされた感があり、いわゆる正攻法が限界に近づいていた感覚がありました。
もし新しいことをやりたければ、AIを使うなど従来の方向性とは異なるアプローチを採らなければ、という風潮もありました。もちろん、それも必要なチャレンジで、その方向性も楽しいし、面白いと思います。
ただ、私の場合は、化学計算の入口と出口は同じだとしても、自然が辿っていると思われる過程に特に興味があり、より理論に忠実な計算化学の正攻法で取り組みたいと。それができる可能性があるのは、私が知る限りでは量子コンピュータによる研究だけあり、その環境を提供してくれるクオンティニュアムという会社を選択しました。
〇量子化学における古典コンピュータの限界とは?
──計算化学を究めるためなのですね。具体的にどのような研究を行うのでしょうか?
計算化学とは、実験中心ではなく、コンピュータによる計算を中心に行う化学研究です。その中でも、私が専門にしているのは量子力学に基づいて化学研究を行う量子化学(Quantum Chemistry)という分野であり、1927年頃に確立されてから、すでに95年以上の歴史を持ちます。
量子化学では、原子核と電子の間の相互作用を計算して分子の性質を求めます。ただし、原子核は電子と比べて非常に重いためまずは停止しているものと仮定し、電子の動きなどの性質を計算で明らかにすることが基本となります。
本当なら原子核と電子の両方が動いている状態を想定すべきですが、それには膨大な計算が必要となります。そこで、原子核を対象から外して計算量を抑えているのです。
電子の数もいきなり複数個を想定すると計算量が莫大となるため、ある1つの電子とそれ以外の電子の平均的な相互作用に着目して計算します。他の電子も同様に振る舞うと仮定します。これを平均場理論と呼び、この理論で電子の性質の99%程度がわかるのですが、未知の1%の性質で化学反応した際の振る舞いが決まってしまうことが知られています。
また、量子化学には階層性があり、平均場理論が一番下の階層に相当します。その上の階層からは複数個の電子の相互作用を想定するため、各電子の配置など取りうる状態の組み合わせが指数関数的に増加します。それら一つひとつの組み合わせをスーパーコンピュータなどの高性能コンピュータで計算するのですが、ここで壁に突き当たります。スパコンの性能がいくら向上しても、組み合わせの複雑さがそれを上回ってしまうのです。
そこでどうしてきたかというと、1970年代に量子化学でコンピュータが使われ始めた当初から「電子が取りうる状態を厳密に計算する」というのは二原子分子程度までしかできないことが明らかでしたので「いかに厳密な方法を使わずに、それと同じくらいの精度を出すか」を追求してきたのです。そこでは、平均場理論から得られる分子の描像に基づく計算化学者の直感が重要な役割を果たしてきました。
〇量子コンピュータなら不可能を可能に変えられる
──その問題は、量子コンピュータによってどう解決されるのでしょうか?
量子コンピュータは電子の状態を自然に表現できるような性質を持ったコンピュータです。例えば、量子コンピュータの特徴として、よく「0と1を重ね合わせた状態を作れる」と説明されます。電子配置間の関係には、まさにそのような性質があり、量子コンピュータを使えばこの関係を自然に表現(マッピング)することができます。
これにより、量子化学の計算を理論上は綺麗に行えるとされています。
また、スパコンをはじめとする古典コンピュータは線形的なスケールアップしかできないため、先ほどお話ししたように電子が取り得る状態の組み合わせがある程度以上になると現実的にはマッピングできなくなります。
それに対して、量子コンピュータでは理論上は量子ビット(Qubit)を1つ増やすと扱える組み合わせが2倍になるため、量子ビットを増やしていけば少なくともマッピングすることは可能です。実際に処理できるかどうかは実用化された量子コンピュータの性能に依存しますが、マッピングが不可能なのと、可能なのとでは決定的に異なります。
そこが、私たち研究者が最も期待しているところであり、なおかつマッピングした後でどう解くかに研究の醍醐味を感じている部分でもあります。量子コンピュータには重ね合わせ状態を同時に処理できるという性質もあるので、これらをうまく活用できるアルゴリズムの開発と実装が重要です。
〇量子コンピュータで計算化学は予測能力を獲得する
──量子コンピュータが実用化され、計算化学で使えるようになったとき、社会や産業にどのようなインパクトを
もたらす可能性がありますか?
社会や産業に与えるインパクトは多岐にわたると思いますが、私が最も期待しているのは「計算化学が予測能力を持つ」ことです。現状の計算化学は古典コンピュータの処理能力の限界から実用的な大きさの分子系に対して予測能力を持つまでには至らず、実験結果の説明材料を提供することで様々な研究の役に立ってきました。
将来、量子コンピュータの実用化によって計算化学が予測能力を獲得したら、大きなトランジションになります。例えば「分子A、B、Cをこのように合成し、こういった効果のある医薬品や新素材を作れる可能性がある」といったことを計算によって予測できるようになるかもしれません。
──研究開発の効率性や精度が飛躍的に高まるということですね。目覚ましい成果が期待される分野としては何が
挙げられますか?
これまで最も予測が困難だった分野、すなわち化学反応を扱う分野です。創薬や材料の研究で化学反応を伴う性質を予測するのは途方もなく難しいのですが、それを量子コンピュータが変える可能性があります。創薬分野なら、ある変化をブロックあるいは促進する薬の開発や、特定の病気の進行を遅らせる、ウィルスが付きにくくするといった薬の開発が行えるようになるかもしれません。
予測能力を獲得できれば、研究開発の競争力が圧倒的に違ってくる。これは近い将来ではないですが、それを目指すのが量子コンピュータを使った化学計算の重要性であり魅力だと思っています。
──実用化という目標に対して、ベンチマークとしていることはありますか?
量子位相推定※を化学の問題に適用し実証実験をするというのが、ひとつのマイルストーンだと思っています。クオンティニュアムのハードウェアを使えば、今後1年もしくは2年程度をかけて実現できるかもしれません。
ただ、これはあくまで第一歩。理論的な優位性は保証されていますので、実機ではまだ「何もできない」から「何かできる」に進むということが重要だと考えています。古典コンピュータを使った量子化学は成熟しており、95年の歴史があります。それを10年20年で逆転することはできないかもしれませんが、いつかは古典コンピュータが、まだ成し得ていない予測能力を追求できるのではと思います。
※量子位相推定とは与えられたユニタリ演算子と固有状態に対して、固有値を量子コンピュータによって求めるアルゴリズム。古典コンピュータに対する優位性(量子優位性)が理論的に示されている。化学の問題に適用する場合は、試行電子波動関数から固有電子状態(たとえば基底状態)のエネルギーを求めるアルゴリズムと捉えることもできる。
〇日英米をまたぐチームでInQuantoを開発
──量子コンピュータの実用化に向けて、今、どのような仕事に取り組んでいるのか、教えてください。
現在は英国を拠点とする15名程度のチームとともに、量子計算化学ソフトウェアプラットフォームであるInQuantoの研究開発に取り組んでいます。このチームは量子コンピュータによる量子化学計算用のソフトウェア開発組織としては世界最大規模だと思います。また、日本、英国、米国にまたがるチームでハードウェアを用いた実証実験等も実施しています。
量子化学に関する当社の研究やお客様との共同研究を通じて様々なソフトウェアを作り、それをプラットフォームとしてご提供するのが私たちの役割です。
そのため、私自身も普段は量子アルゴリズムを開発し、それをどのような化学反応や分子に適用できるかといったことをメンバーとともに研究し、その成果を随時InQuantoに取り込んでいます。InQuantoを使うことで、量子コンピューティングに関するノウハウの蓄積がないお客様も量子化学の発展の波に乗っていただくことができます。
InQuantoの開発で気を付けていることの一つは、ハードウェアに関する知識を持たない方でも量子化学の計算を行えるようにすることです。
現在、量子計算化学に取り組んでいるのはほとんどが量子コンピュータについて専門的な知識を持った方々です。私たちは、究極的には量子化学の知識を持たない一般の研究者でも、対象とする原子や分子などを指定するだけで、計算によって物質の化学的な性質などがわかるようにしたいと考えています。
また、InQuantoのもう一つの重要な特徴は、開発したソフトウェアをクオンティニュアムのイオントラップ型量子コンピュータだけでなく、他社の量子コンピュータでも動かせることです。InQuantoには当社のハードウェアの性能を最大限に引き出す工夫を盛り込むだけでなく、他社の様々なハードウェアの特徴も取り入れながら、最短のステップで量子優位性(Quantum Advantage)を達成することを目標に開発を進めています。
〇夢は量子コンピュータを使った化学反応の研究
──最後に、仕事とプライベートを問わず、今後、挑戦したいことや目標などを教えてください。
クオンティニュアムでの仕事や研究者としての活動など、どのようなかたちであれ、いつか量子コンピュータを化学反応のシミュレーションで使ってみたいですね。
現在はそれに向けてクオンティニュアムで世界中の選りすぐりのメンバーと活動しているのですから最高の環境です。ハードウェアチームのメンバーは米国にいて、ソフトウェアチームのメンバーは英国と日本にいるため、時差の問題でミーティングの調整などが大変なときもあります。とは言え、日米英の3カ国にまたがってハードウェアとソフトウェアの組織を持っていることがクオンティニュアムの強みでもあるので、この特徴を生かして化学反応のシミュレーションにつながる量子優位性を実現し、思う存分に化学反応の研究をすることが私の夢ですね。
私は大学の研究員時代、光合成に共通する水分解触媒の研究をしていました。光合成とは、植物やシアノバクテリアが光エネルギーを使って化学反応を行い、有機物などを作り出すプロセスです。その過程で酸素も作られることが知られています。
光合成で興味深いのは、これを行う全ての植物やシアノバクテリアに共通の触媒がいることです。4個のマンガン原子と1個のカルシウム原子を反応中心に持つ巨大なタンパク質から成り、これに光が当たると水が分解され酸素が放出されるのですが、この触媒よりも効率的に光のエネルギーを化学エネルギーに変換できる仕組みは人工のものも含めて存在しません。
それほど素晴らしい触媒なのですが、そのメカニズムの詳細は現在も解明されていません。4個の遷移金属原子が絡む化学反応は極めて複雑であり、スパコンを使っても原子の動きをシミュレートできないのです。光合成はさまざまな産業の基礎となる化学反応です。量子コンピュータを実用化できたら、またいつか研究してみたいですね。